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4.民間における温泉熱利用

指宿で温泉を浴用以外に最初に利用したのは熊本県出身の荒尾野常太郎氏で、明治末に「馬洗湯」付近の自然湧出温泉を利用して製塩を試みている30)。1916年(大正5)には広田香技手が温泉熱利用園芸を試みた4,21)。摺ケ浜、湯の里では施設を利用しないで麻の蒸煮、剥皮が行われた29,30)

産業用としての温泉開発は、温泉熱利用施設園芸、温泉熱利用製塩のために弥次ケ湯および湯の里温泉地で勧められた。自然湧出の温泉利用で始められたが、その後掘削温泉が利用された。湧出量は泉源井当たり150~250t/日であった30)

1920 年(大正9)頃までの施設園芸は東京、大阪の近郊と愛知県および静岡県の一部で僅かに発達していたにすぎなかった。1920年九州南端で温泉熱利用による 蔬菜類の促成栽培成功例が発表されると、国内の先進施設園芸地にとっては脅威であった。温泉熱利用園芸法が新聞で発表されると、温泉湧出地の大分県別府、 静岡県伊豆で温泉利用園芸の計画がたてられた21)

指宿 では、1921年(大正10)にアメリカ合衆国より帰国した外村亀吉氏が1925年(大正14)に黒木甚吉氏とともに民間ではじめて温泉熱を利用した作物 の経済栽培に着手した。1926年(大正15)には田中高市(熊本県出身)、1927年(昭和2)には米永敬造、1928年(昭和3)には岩切捨之の各氏 が園芸作物栽培を開始した。外村亀吉氏は、米国における農業体験から零細な指宿農家の発展を期するには科学的集約農業を普及し、面積当たりの増収を計り、 現金収入を多くすることが道との信念を持ち、熱心に園芸作物栽培を行いながら、同志向者への指導を行った。その結果、ことごとく同志向者の栽培は成功し た。これには万人が注目するようになり、栽培希望者が続出した4,21)

1.温泉熱利用組合の設立と施設園芸の振興


外村亀吉翁4)

外村亀吉氏は1921年(大正10)に指宿の海岸の砂丘地でスイカの早熟栽培を行い、翌年6月には出荷した。販売の合理化策として「指宿温泉熱利用副業組 合」を設立、組合長として活躍、指宿スイカの名声を高めた。1928年(昭和3)には栽培面積を15haに拡げ、6月3日より15日まで毎日約8tを出荷 した。1929年(昭和4)、「副業組合」を「指宿泉熱利用園芸組合」に改組し、組合長として小ナスの増産をはかり、共同出荷による販売体制を確立すると ともに栽培者の収入増に努めた4)

第9表.指宿温泉熱利用園芸農業協同組合の変遷
年次 組合の名称および事業 組合長 組合員数 主要取り扱い作物
1922
(大正11)
指宿温泉熱利用副業組合 外村 亀吉
ナス、スイカ
1929
(昭和4)
指宿温泉熱利用園芸組合 外村 亀吉
ナス
1943
(昭和18)
指宿温泉熱利用園芸組合

ナス栽培中止

戦時下統制経済のため解散


1949
(昭和24)



10名ナス栽培開始
1950
(昭和25)



17名ナス本格栽培
12月5日 指宿町温泉熱利用園芸



農業協同組合設立 花園 甚蔵 27名
1951
(昭和26)




12月14日
竹下 八二 27 ナス、キュウリ、枝豆
1952
(昭和27)

高田 豊助
ナス、スイカ、枝豆
1953
(昭和28)



ナス、スイカ、サトイモ
9月25日 外村亀吉翁顕彰碑建立


1954
(昭和29)



ナス、キュウリ、サトイモ
9月1日
湯通堂 直二
ナス、メロン、スイカ
1957
(昭和32)



ナス、メロン、スイカ、観葉植物、花き
1962
(昭和37)
創立10周年事業記念
27 ナス、枝豆、スイカ
1974
(昭和49)

渡瀬 昌男 26 ナス、メロン、スイカ、ソラマメ
1985
(昭和60)


17 ナス、メロン、スイカ、ソラマメ
1994
(平成4)

秋元 次雄
ナス、ソラマメ、ビワ
1999
(平成11)


13 ナス、ソラマメ、ビワ
第10表.1940年の小ナスの栽培状況中山)
栽培農家 温床延間数 温床面積 投下資金 年販売額
80戸 7,500間 600坪 400千円 170千円

1929年(昭和4)頃より吹き荒れた世界的経済恐慌で、農業への影響は大きく、農業振興は停滞した。こ の折りとはいえ、温泉熱利用園芸農家は毎年累増し、既設栽培者は規模を拡大した。1940年(昭和15)には全盛期を迎え、小ナス約400万個を国内はも とより、中国北東部(旧満州)、北京、上海、朝鮮半島等指宿より出荷可能な各市場へ送り出した。

1930年代には温泉熱利用施設園芸の有利さから、泉源の掘削が増加した。泉源井間の距離、掘削深度、温泉水位等掘削許可は制限されたが、無理な距離での掘削も行われた。掘削深度は多くが30~60mで、稀に120mの温泉井もあった29,30)。掘削孔の揚湯の挿入管は節抜きの竹管が用いられた。

1940 年代後半からはエタニットパイプが用いられるようになった。小ナスの生産額は第10表に示すとおり170千円で、トマト、ネットメロンおよびキュウリの計 50千円を加えると、計220千円、農家当たり2.7~3.0千円の収入であった。当時の指宿町の主要農業収入は葉タバコで、生産農家1,500戸、作付 け面積241ha、売上金(収納代金)730千円、1戸当たり487円に比べると温泉熱利用の小ナス栽培農家の羽振りの良さが伺える。

温泉熱利用園芸組合の解散

風雲急を告げた1943年(昭和18)には戦時経済統制によって生鮮食料品の価格も統制され、施設栽培作物は生産原価を割り、栽培を中止せざるをえなく なった。栽培施設の転用方法を検討したが、生産物総てが統制されたため、生産物の輸送すら困難となり、促成栽培だけでなく組合の維持ができなくなり解散し た。

2.温泉熱利用製塩と事業の盛衰

温泉熱を利用した製塩は既述のとおり明治末に始まり、大正時代海岸よりの温泉自然湧出地で小規模製塩が行 われた。温泉利用法の開発につれて温泉相互間の影響が出現したが、1933年(昭和8)には温泉熱利用製塩は中止され、温泉の多くは園芸作物促成栽培に転用された。しかし、第二次世界大戦(1941)になり施設園芸は衰微した。一方、1942年(昭和17)には塩専売法の改正により、製塩が奨励されたが、 1945年(昭和20)頃までには資材難で、製塩の新規開発は行われなかった。

1945年(昭和20)8月15日の第二次世界大戦の終結とともに食糧不足は一層深刻となった。食塩の不足も同様で、日々食塩の価格が高騰した。1946年(昭和21)に塩専売法が改正され、蔬菜類促成栽培の施設等を改造した温泉熱利用製塩が急増した。

1947年(昭和22)頃から温泉採湯増量のため水位切り下げ、新掘削、修理掘削、動力揚湯が行われるようになった30)。このため、広範囲の地区で温泉水位および泉温の低下、湧出量の減少が起こった。当時の泉源数は第11表に示すとおりである。

1950年代後半には指宿温泉地域内で年間1億円の生産をあげた。一方では温泉量確保のために各地で泉源掘削および揚湯が行われたため、温泉水位および泉温が低下した6)

1950年の製塩用泉井は133本(孔)、1本当たり50~120t/日を揚湯利用した。一方、政府は外国からの良質塩の輸入を増加し、1960年代には温泉利用製塩による生産はコスト高となり採算は不可能となった。

1955年(昭和30)前後からは規制が緩和され、古い温泉孔の浚渫が届出制となり多くの温泉の浚渫が行われた。それとともに、水位および温度低下、湧出量は減少した。これには動力ポンプによる大量揚湯が影響したものと思われる。

このような事態に対処するために、1960年(昭和35)頃から、温泉の実態調査が行われ、温泉法と温泉審議会による規制のもと、適正な動力許可や温泉水位切り下げが禁止された。

1964 年(昭和39)に温泉利用製塩が禁止され、製塩地域では泉温、温泉水位の上昇、湧出量が増加した。製塩に替わって施設園芸、養魚、養鰻、家庭への配湯等の 事業が増加し、またもや泉温、水位低下、湧出量減少が起こるようになった。1964年(昭和39)には温泉熱利用製塩事業が中止になり製塩業は終焉した1)

第11表.1950年(昭和25)当時の泉源数波1)
泉源 利用
掘削 温泉井戸式 自然沸出 製塩 促成栽培 浴用 促成醸造 配湯用 遊休
378 2 3 393 133 63 74 5 3 105

3.第二次世界大戦後の施設園芸の復興

1949年(昭和24)の植物試験場の推奨により小ナスの栽培を始めたのは10名であった21)。小ナスの市場価格が驚くほどの高値で取引きされたことから、1950年(昭和25)には栽培者が増えた。

外 村亀吉氏は共同出荷を呼びかけ、出荷場の建設を計画した。しかし敷地、建物建設資金が栽培者の資金力では不可能であった。当時指宿町の企画委員であった植 物試験場の中山定徳先生は、指宿産業振興に温泉熱利用促成園芸の復興をつとめて強調された。中山先生の考えは町長ほか市関係者の理解が得られ、共同出荷場建設資金補助金が認可された。さらに、鹿児島県農政部へも同趣旨を要望されたところ、蒲牟田嬉之助技師の奔走により県の補助金が認められた。このような補 助金等により土地購入およびバラックの出荷場建設がなされ、1950年(昭和25)12月1日より出荷が行われた。

1951年(昭和26)1月から2月の東京市場では1個最高120円で取引きされ、栽培者の生産意欲を誘った。それでも製塩事業の好調さから施設園芸の復旧は遅れた。

4.指宿温泉熱利用園芸農業協同組合の設立と施設園芸の発展

温泉熱利用小ナスの生産の増加および出荷場が建設され、共同出荷が行われるとともに、組織化の気運は一気に高まり、1950年(昭和25)12月5日に27名で指宿温泉熱利用園芸農業協同組合を設立(指宿町十二町133番地)した4)

組合規約の第一条には「相互扶助の精神に基づき、組合員が協力して、指宿特種の温泉を最高度に利用し、園芸農業の生産能率を上げ、組合員の福利増進を計るを目的とする」とある。組合員の栽培施設は以下のとおりであった。


フレーム(栽培温床) 1,655間(8,190㎡)
ビニルハウス 250坪(825㎡)
温室 450坪(1,500㎡)
泉源 27個(孔)

小ナスを主に、1960年代までは、スイカ、キュウリ、トマト、ネットメロン、ピーマンを、最近ではソラマメ、ビワ等を出荷している。1957年(昭和32)から観葉植物を数年間取り扱った。


小ナスの選別とパラフィン紙によるラッピング。
(指宿温泉熱利用園芸農業協同組合、1999、平成11年)


スイカの品種「田端」の立体栽培。
(指宿植物試験場、1961、昭和36年)

1951年(昭和26)頃よりビニルフィルム被覆材料の普及が始まり、特に高知県十市地方での蔬菜類のビニル被覆栽培には指宿地方の施設園芸農家は刺激さ れた。温室、温床の復旧および新設には資金を要したことから、1952年(昭和27)には肥後正樹指宿町長の尽力で、農林金融公庫より540万円の低利子 融資が実現した。それにより町内の温床の復旧および新設が行われ、小ナス、キュウリ、トマト、ネットメロン等の生産が増加した。小ナスの選別および包装は 手作業で丁寧に行われている。

第12表.温泉熱利用作物栽培
年次 ナス メロン スイカ 観葉植物
面積(ha) 生産量(万個) 生産額(千円) 生産量(kg) 生産額(千円) 生産量(kg) 生産額(千円) 面積(ha) 生産量(千鉢) 生産額(百万円)
1951
49 6,106 176 7 176 7


1952
55 5,888 313 124 1,260 336


1953
75 7,418 654 147 1,440 376


1954
54 5,404 974 240 683 167


1955
41 4,395 1,010 223 1,157 334


1956
61 5,273 778 199 2,470 512


1957
60 5,420 626 127 3,330 747


1958
77 3,874 521 135 3,500 631


1959
57 5,254 168 168 4,426 881


1960
64 4,522 214 151 3,322 814


1961
52 5,724 386 108 3,210 956


1962
54 5,068 1,220 329 5,253 1,709


1963
62 6,527 2,066 679 3,631 1,484


1964









1965
62 8,488






1966
52 7,317 4,478 1,383 8,015 2,998


1967
53 6,986 4,346 1,434 7,350 2,903


1968
71 9,425 5,611 1,946 7,866 2,948


1969
76 12,176






1970
75 11,540 5,492 2,255 11,758 5,361 7.0
147
1971
65 8,838 7,798 5,237 8,882 4,638 7.5
157
1972
44 9,079 8,330 4,161 7,513 3,833 8.0
160
1973
57 12,116



5.3
160
1974
51 13,288 6,134 3,998 4,614 3,372 6.0 270 126
1975
59 28,483 4,750 3,792 5,774 3,725 6.0 331 295
1976
59(39t) 30,700 4,376 3,197 8,525 6,616 7.0 385 347
1977
75(42t) 30,464 2,809 2,058 5,810 2,949 12.0 743 465
1978
102(43t) 42,409 1,875 1,514 4,069 2,242 12.0 1,246 640
1979
121(1t) 37,301 405 286 1,582 939 12.7 1,236 632
1980
217 64,608 1,594 1,131 175 150 20.2 902 714
1981
294 72,933 421 345

20.5 498 794
1982
283 85,727 1,035 717 713 421 21.3 990 882
1983
272 65,879 559 536 292 183


1984
230 68,826 1,144 928




1985
273 63,883 629 508 126 49


1986
260 72,920
34

26.0 884 1,326
1987
251 79,988 76 96

27.0 947 1,587
1988
253 77,678 32 37




1989
254 82,819 6,180個 197

28.0 1,017 1,863
1990 2.0 225 77,060 74 51

34.6 3,331 2,113
1991 3.0 218 70,992 9 7

35.8 3,468 2,175
1992 3.0 218 69,231 246個 7

30.1 1,096 2,192
1993 4.0 220 57,796



30.2 862 1,574
1994 5.0 204 55,573



30.2 967 1,722
1995 5.0 179 49,635



30.0 1,150 1,944
1996 4.0 185 37,596



32.2 1,190 2,370
1997 4.0 133 34,974



32.5 1,260 1,899
1998 2.0 128 30,747



40.2 1,810 1,990

ビニルフィルムの普及により全国的に蔬菜類の促成栽培は増加したが、指宿の温泉熱促成園芸の有利性は 1940年以前程ではなくなった。そこで、より一層の振興のため生産性の高い作目、品種を求めようと、静岡県で栽培されているトマトの品種「ファースト」 およびスイカの品種「田端」を静岡県豊浜の生産組合にお願いしたが入手できなかった。のち、東京築地の東京促成園芸株式会社に交渉して両品種を入手し、栽 培した。

1970年代以降は観葉植物の栽培が増加し、反面蔬菜類の温室栽培は減少した。

5.観葉植物の導入と栽培

1951年(昭和26)頃ビニルフイルムの普及とともに、観葉植物の栽培を行う農家が増え始めた。

1949 年(昭和24)6月、兵庫県宝塚市山本の阪上忠治氏外2名が鹿児島大学農学部指宿植物試験場を訪れ、インドゴムの苗増殖を依頼した。指宿以外からの観葉植 物生産依頼の始まりであった。1950年5月再度来訪、インドゴム、ヤシ類の苗、ソテツ株物、その他観葉植物類を購入した。第二次世界大戦後の植物取引の 黎明であった22)。阪上忠治氏は1953年(昭和28)指宿十町秋元の小作地にゴム、ホウライショウ、ヤシ類の栽培を開始、さらに栽培面積を拡張し、輸入種子で増殖、栽培して関西方面へ輸送販売した。

1952年(昭和27)頃より温泉熱利用促成栽培者が観葉植物栽培に興味を持ち始め、宮田武二、大牟礼秀徳、川上 茂20)、田中高市氏等が栽培した22)。田中高市氏はアルゼンチンよりヤシ類外各種植物種子を輸入・増殖して栽培面積を拡め、小ナスの栽培を止め、観葉植物栽培専業の道を選んだ。

1955 年(昭和30)頃より指宿植物試験場の中山定徳先生は、観光施設として指宿植物試験場のガラス標本温室の参考に熱帯ムードを創出するため大規模熱帯植物栽 培温室構想を肥後正樹指宿市長に提案したが、当時の市財政では困難なことから、市長は観光業者に推奨した。その意を受けた大手ホテル業者は1958年(昭 和33)に着工、1960年(昭和35)5月に浴場を含む2,000㎡の熱帯植物園(指宿観光ホテルジャングルパーク)が竣工した。この方法がモデルとな り以後国内各地に類似した施設が建設された。

1956年(昭和31)に中山定徳先 生、田中高市、米永敬蔵氏らは東京都八丈島の観葉植物栽培地を調査、当地の植物栽培規模に驚嘆するとともに、観葉植物の経済性を再認識した。さらには、八 丈島に比べ指宿の気候的に温暖なこと、温泉熱利用が可能なことから栽培環境は一段と有利なことを認識し、指宿での栽培拡大を同志向者に勧奨した。

同年には鹿児島市の長島公佑氏が指宿十町で観葉植物栽培に着手、その規模の大きさは全国的にも注目された。

経年とともに栽培面積が増加すると、栽培種類の増加および栽培方法の向上、生産物の販売方法の開拓が求められた。

1956年(昭和31)に川上 茂氏は1938年(昭和13)に解約した徴兵保険10円で米国よりワシントニア、フェニックスの種子を購入し、育成した苗を指宿観光ホテルに販売している20)

1960年代に製塩事業が不振になると、製塩施設を観葉植物栽培へ転用する面積は一層増加した。1960年(昭和35)に関西の大手貸鉢業の神港農園大森三男氏が、同年宮崎氏中村造園の中村林太郎氏がそれぞれ指宿市十町に進出、栽培を開始した。

6.指宿観葉植物組合の設立と栽培の振興

1953年(昭和28)頃、愛知県の小笠原亮氏は指宿植物試験場の福留八郎先生と南薩および佐多町の自生植物調査のおり、佐多町伊座敷の薬園のオオバゴムの大木に驚き、南薩および佐多町は国内では熱帯植物の栽培に適した環境であることを強調した。

1954年(昭和29)8月、中山定徳先生は10名の栽培者を会員として「指宿熱帯植物同好会」を結成、規約を作成して1957年まで会長を務めた。年間4~5回の研修会を行い、種類の選択、種苗導入、栽培技術の改善、販売方法の検討・指導を行った22)

第13表.指宿観葉植物生産組合の変遷
名称 代表者 会員数 備考
1954(昭和29) 指宿熱帯植物同好会 中山 定徳 10名
1957(昭和32) 指宿熱帯植物同好会 宮田 武二

1963(昭和38) 指宿観葉植物組合 大牟礼秀徳 31
1966(昭和41)

61 セリ市開始
1968(昭和43) 指宿観葉植物組合 湯通堂直二 60 品評会開始(以後年1回)
1975(昭和50)

54 フラワーショウ開始(以後年1回)
1979(昭和54)

56
1980(昭和55)
広森 秀雄 58
1983(昭和58) 指宿市農協観葉部会発足 鎌ヶ迫 正 36
1984(昭和59) 指宿市農協観葉部会

共進会開始(以後年1回)
1989(平成1) 指宿市農協観葉部会 福留 壮一 72
1989(平成1) 指宿観葉植物組合 鎌ヶ迫 正 57
1993(平成5) 指宿観葉植物組合解散 鎌ヶ迫 正 77
1997(平成9) いぶすき農協観葉植物部会 鶴之園賢一 73

1955年(昭和30)、観葉植物振興に深い理解を抱いた肥後正樹指宿市長は、福岡市長に観葉植物展示・ 即売会の開催への協力を依頼している。中山定徳先生と指宿市役所黒岩利雄氏が具体化の交渉に当たった。福岡市長の理解を得て、福岡市水上公園で指宿市の観 光宣伝を兼ねた指宿熱帯植物同好会共催の第1回展示・即売会を開催した。会は大好評で、その後毎年開催したが、事情あって、九州大学加藤先生の協力で福岡 市岩田屋デパートに会場を変更した。生産量の増加したことから小倉市の玉屋デパートでも開催した22,23)

1957年(昭和32)から同好会は宮田武二氏を会長、大牟礼秀徳氏を副会長、外村亀吉氏を顧問、中山定徳先生を指導者に指宿植物試験場内で例会を行った。肥後正樹指宿市長、指宿市役所観光係の協力を得て指宿観葉植物生産・発展の推進母体として活動した。

1959年(昭和34)2月愛知県豊橋市に日本観葉植物株式会社が設立されると栽培者の生産欲は一層膨らみ始めた。

1963年(昭和38)蔬菜の促成栽培者および塩業不振により製塩業者の観葉植物栽培への転向が増加した。指宿熱帯植物同好会を「指宿観葉植物組合」に改称し、初代組合長に大牟礼秀徳氏を選出、共同出荷先を広島市、神戸市、大阪市、名古屋市へと拡めた。

1965年(昭和40)の指宿の観葉植物栽培面積は70ha、ハウス面積26,000㎡、生産額8,000万円位であった21,22)

1968年(昭和43)、指宿農業協同組合が事業主体となり第一次構造改善事業を導入し、同組合は温泉熱利用温室1,650㎡を建設し、観葉植物の育苗受委託を開始した。

1970年(昭和45)の観葉植物栽培面積は7.0haを超し、約1.5億円の販売額をあげている。

指 宿観葉植物組合は1965年(昭和40)7月より組合出荷場で観葉植物セリ市を開始した。以後年間10数回開市した。買請け人は日本各地より参加し、年1 回は意見交換と親睦会を開催し、栽培する種類・品種の選択、生産物形状の改善方法、生産拡大の指針を検討した。さらに1975年(昭和50)より生産技術 の向上および生産物の宣伝を目標に、1993年(平成5)までに計18回の品評会を開催した。

1993年(平成5)、「指宿観葉植物組合」(組合長鎌ヶ迫 正)は任意組合であり、信用事業や購買事業が出来ず、組合員のほとんどが農業協同組合員でもあったことから解散して「指宿市農協観葉部会」(部長福留壮一)に事業は引き継がれた。


指宿観葉植物組合振興記念碑。
(指宿市役所内、1993、平成5年4月26日建立)


左:観葉植物組合長 鎌ヶ迫 正氏。
右:観葉植物部合長 福留 壮一氏。

7.いぶすき農協観葉植物部会の設立

1983年(昭和58)6月、指宿観葉植物組合員は、植物の共同出荷、資材購入および信用業務は同農業協同組合で取り扱っていたことから、指宿市農協観葉 部会(部会長鎌ヶ迫 正、組合員36名)を設立した。部会の目的は「地域の特性を活かした観葉植物の生産を積極的にすすめ、生産物の安定供給を計り全国へ のPRと消費者ニーズに合った商品作りに努め、生産農家の経営安定と産地の健全なる発展に資する」と規約に掲げている。1993年(平成5)、揖宿市郡内 の農業協同組合合併により「いぶすき農協観葉植物部会」と改称した。


JAいぶすき観葉植物セリ市案内。

1984年(昭和59)より3月に年1回の観葉植物見本市を開催し、初日には全国より参加した各市場社員により優良品の選出と意見交換会および親睦会、翌 日には生産現地の視察を行っている。1985年(昭和60)からはゴルフコンペを行っている。セリ市は1993年(平成5)観葉植物組合より引継ぎ、年 10数回行っている。

第14表.第1回観葉植物展示見本市参加市場(1984)
(指宿農業協同組合観葉植物部会)
九州日観植物株式会社
岡山花き園芸株式会社
大原種苗株式会社
土佐花き園芸株式会社
大阪花き園芸株式式会社
奈良県花き植木(農)
日本観葉植物株式会社
株式会社 福花園
日観東京中央市場
日観東京西部市場
埼玉園芸株式会社

8.指宿植物研究会

1961年(昭和36)、植物生産を行っている若者10人が、指宿の風土と植物の結びつきを観光の基盤にしようと若者同好会を結成した7)。温泉熱利用で栽培した観葉植物の展示会を福岡市の岩田屋デパートで行った。1968年(昭和38)、著者はこの同好会を「指宿植物研究会」と改名した。年間10数回の研究会を市内・外で行い、指宿市の植物研究・振興の重鎮的役割を果たしている。

9.グリーンファーム指宿生産組合の設立

1970年代初めまでは指宿市内からの観葉植物の出荷は、毎年春から初夏に生産者当たり1~2回、近畿以 南の市場に向けて行われていた。一方、全国の観葉植物販売業者による生産現地での買い付けが多く行われ、販売価格と売り先が日替わりした。このため関西、近畿地方の観葉植物取扱者より著者は指宿の観葉植物生産者の商業マナーの教育を厳しく求められていた。これに応えるには生産量増産が必要で、そのためには 生産基盤の確立が至上との構想を持った。構想に賛同してくれた鎌ヶ迫 正、大小田 勇、川上 健、長山良兼各氏ら他数名が昼夜検討を続け生産団地構想をま とめあげた。

1978年(昭和53)に農林水産省九州農政局、鹿児島県、指宿市農 林水産課および農業委員会の指導を得て、農事組合法人グリーンファーム指宿生産組合が事業主体となって第二次構造改善事業を導入、組合員8名(組合長理事 鎌ヶ迫 正)で第15表に示す規模の生産団地を建設した。東洋一の規模で、指宿から観葉植物周年出荷体制を確立し、「観葉植物生産地指宿」の名声を高め た。この事業の計画から完成まで著者(指宿植物試験場主任)は全面的に指導を行った24,25)

竣工後でも、日本観葉植物株式会社の林 有孝社長は全国的な需要に対して材料不足を嘆き、さらに指宿の増産を切望された。

第15表.組合法人グリーンファーム指宿生産組合事業概要24,25)
1 事業名 第2次農業構造改善事業
2 事業主体 農事組合法人グリーンファーム指宿生産組合
3 組合員 8名
4 場所 鹿児島県指宿市西方1739番地1
5 施設内容 (1)ガラス温室 8棟 2,948.4m2
(2)ビニルハウス(FH型) 32棟 22,528.0
(3)ビニルハウス(KP型) 26棟 17,740.8

計 43,217.2
(4)付帯施設 資材倉庫8棟、泉源7本、給水源4本、加温管施設、潅水施設、電気、水道
(5)管理センター 1棟 97m2
(6)用地面積 79.321m2
6 事業実施年度 事業着工 1976年(昭和51)9月
事業完了 1978年(昭和53)2月
7 総事業費 341,683千円
8 資金調達 国庫補助金 165,841千円
自己資金 35,220
推進資金 140,622
341,683
9 土地取得資金 農地取得資金 80,000千円
信連単独資金 120,000
農協単独資金 8,652
208,652

10.指宿観葉植物青年部会

1977年(昭和52)、著者は当時観葉植物組合員は経営者のみで構成しており、情報入手および研修の機会に恵まれなかった青年層の育成をはかるべくグ ループの結成を奨めた。鎌ヶ迫 正氏の支援を得、当初は40歳(後には45歳)以下の観葉植物生産に従事している生産者を会員とする「観葉植物青年部会」 として発足した。部会長ほかの役員を1年で交替しながら研鑽している。

第16表.指宿観葉植物青年部会
歴代 部会長名 会員数
1977(昭和52) 1 桜井 久雄 11
1978(昭和53) 2 桜井 久雄 11
1979(昭和54) 3 田原迫正一 13
1980(昭和55) 4 大牟礼康男 16
1981(昭和56) 5 秋元 公誠 19
1982(昭和57) 6 秋元 公誠 21
1983(昭和58) 7 小村 幸一 19
1984(昭和59) 8 奈良 正一 20
1985(昭和60) 9 下温湯正弘 21
1986(昭和61) 10 岡島 俊明 25
1987(昭和62) 11 松下 昭五 26
1988(昭和63) 12 広森 博昭 25
1989(平成1) 13 福留 健一 25
1990(平成2) 14 鶴之園賢一 27
1991(平成3) 15 田原迫良人 26
1992(平成4) 16 松永 和幸 26
1993(平成5) 17 中村 隆作 22
1994(平成6) 18 弓指 隆雄 24
1995(平成7) 19 下曽山政一 23
1996(平成8) 20 鎌ヶ迫 浩 29
1997(平成9) 21 下柳田正人 29
1998(平成10) 22 末吉 秀樹 28
1999(平成11) 23 下曽山茂人 25
2000(平成12) 24 諸留 茂美 26
2001(平成13) 25 長山 賢志 25
2002(平成14) 26 大小田伸一 22

11.スカイヒル指宿鉢物生産組合

1996年(平成8)2月、生産者6名で十二町丈六に「スカイヒル指宿鉢物生産組合」(川端勉組合長)を設立し、利用面積は26,954㎡泉熱利用ハウス 面積は9棟8,700㎡で観葉植物生産を開始した。工事費は64,272千円(国補助50%、県補助25%、自己負担25%)、温泉の深度は300m、泉温は82℃である。この土地は当初果樹生産団地(ビワ)振興構想で始めたが、途中から地権者の協力と指宿市役所農林水産課の指導を得て観葉植物生産団地に 変更した。

12.北町観葉生産組合

この組合は南薩畑地かんがい事業西方工区の事業完成に伴い、土地の整備と導水が終わった平成2年に3人の生産者によって計画され、平成3年度降灰対策事業として完成された観葉植物生産団地である。

当時、降灰対策事業では切花栽培等には広く導入されていましたが、切花よりも被害が少ないとの見解から観葉植物ではなかなか認可が下りないでいたが、当団地が初の適用となった。鹿児島県及び指宿市役所関係者と生産者で多くの資料を集め、協議を重ねて漸く完成した。

事業名 活動火山周辺地域防災対策事業
事業主体 北町観葉生産組合。 組合長 川上 健。
組合員 王子田逸雄、広森博昭
事業面積 土地 10,500㎡
ハウス5棟 10,482㎡

13.グリーンヒル観葉生産組合

この組合は平成14年度活動火山周辺地域防災営農対策事業で、平成15年1月完成を目指している。土地は農業委員会の協力を得て、開発公社を介して取得した。各行政機関の力添えで観葉植物振興に尽くすよう情熱に燃えている。

事業名 活動火山周辺地域防災対策事業
事業主体 グリーンヒル観葉生産組合。 組合長 福留健一
組合員 下柳田正人、中道博文
事業面積 土地 16,000㎡
ハウス6棟 10,990㎡
事業費 164,220,000円(国庫補助50%、県補助26%、自己負担25%)
総事業費 216,000,000円

14.花卉観葉植物生産組合ナプス

この組合は平成14年度活動火山周辺地域防災営農対策事業で、平成15年1月完成を目指している。

事業主体 花卉観葉植物生産組合ナプス。 組合長 大牟礼秀人
組合員 下温湯正弘、川上健一郎
事業面積 土地 9,179㎡
ハウス3棟 8,082㎡
事業費 91,875,000円(国庫補助50%、県補助25%、自己負担25%)